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尼港事件5月24日の真実 [目から鱗@@;]

「ねずさんのひとりごと」に「尼港事件」のことが詳しく書かれていました。

あまりの残虐な殺され方を読んで、あることに気が付きました。
中国韓国が、日本軍の蛮行だと言って捏造している内容そのものです。
つまりは、自分たちの先祖がやったことを、そのままそっくり日本人がやったことのように捏造しているということですね。

日本人の先祖は、南京大虐殺のような惨いことができる民族ではありませんでした。

今、あちこちで起こっている無差別殺人のような暴走車による殺人事件、子どもを簡単に殺めてしまう残虐性を持つ親の事件、通り魔のような婦女暴行殺人事件など、どれを見ても、数十年前にはあまり見なかったように思います。その頃の何倍も増えている凶悪事件の数々。

沖縄では、この時とばかりに「沖縄は、米軍基地のせいで、夜、ひとりでは歩けない街になってしまった」と、あの殺人事件を利用している人達(本当の沖縄県民ではないらしいですが)がいますが、夜の一人歩きが危険なのは沖縄だけではありません。
米軍基地がある為に巨額の富という恩恵を得ている沖縄とは違って、何の恩恵も受けていない土地でも、夜の女性の一人歩きはとても危険です。
沖縄以外でも、夜遅い時間帯に、婦女暴行致死などの事件が頻発しています。
もういい加減、その状況に気づくべきです。0
日本も、アメリカのように、女性は夜一人歩きをしないことが当たり前の世の中にならなければならないんです。
危機管理能力を養うべきなんです。

子どもでも対象になっています。誘拐されたら殺されています。
それくらい、今の日本は危険なんです。
アメリカのように、全ての学校にスクールバスを配備するべき時が来ていると思っています。

今後も、どんどん危険になっていくでしょう。
なぜなら、危険人物たちがたくさん入国してくるからです。
緩いんですよね、日本のセキュリティ

そういう現実から目を背けず、親は我が子に危機管理できるように話してあげるべきだと思いますし、学校でも、もちろん、そういうことを話すべきだと思います。
「臭い物に蓋」精神でいる限り、次の犠牲者になりかねないのだと自覚しなくちゃ(^_^;)
日本も、昔のような「安全な国」ではなくなっています。

地震も怖いけど、同じくらい、人気のない場所や夜の一人歩きは止めましょう。
そっちの心の準備も忘れずに。

それでは、ねず先生の「尼港事件」の記事で、真実を学びましょう❀

❀*゚:*❀*゚:*❀ *゚:*❀*゚:*❀ *゚:*❀

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3023.html
今日は尼港事件のあった日

今日(5月24日)は、尼港事件(にこうじけん)が起きた日です。
大正9(1920)年、96年前の出来事です。
いま黒竜江(アムール川)の河口にある街、ニコラエフスクは、当時は尼港と呼ばれていました。
そこに約4300人の共産パルチザンがやってきて、大規模な住民虐殺事件を引き起こしました。

このお話は、拙ブログで何度もお伝えしています。
けれど「何度でも」繰り返します。
なぜなら、下の写真があるからです。

尼港事件.jpg

この写真は、尼港の獄舎の中で発見された写真です。
獄舎の壁に書かれていました。
やっと日本の援軍が到着するとなった日、最後に残った日本人たちが、虐殺されたのです。
そこには鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれています。

この事件で殺された住民は、当時のニコラエフスクの人口の約半分にあたる6,000名です。
加害者の共産パルチザンの内訳は、ロシア人約3000人、朝鮮族1000人、支那人300人でした。
そしてこういう場合、その中に朝鮮族が入ると、自体が非常にややこしくなります。
凄惨になるのです。

国家の安全保障がいかに大切なことか。
こうした過去の現実から、私たちは目を逸らしてはいけないと思います
なぜなら、絶対に繰り返してはいけないことだからです。

けれど現実には、共産主義者はソ連でも支那でも、あるいは周辺諸国でも同様の大量虐殺を繰り返しています。
朝鮮族はベトナム戦争で、たった5万の兵士が、10万のライダハン事件を引き起こしています。
そしていまもなお、あちこちの国で強姦致傷殺害事件を引き起こしています。
歴史は何度でも繰り返されているのです。


私は、「だから恨みを持て」とは言いたくありません。
「恨み」を根本に置くということは、決して良いこととは思えないからです。
そうではなく、事実を事実として、ちゃんと「知る」ことが大事だと思います。

尼港事件で犠牲となった方々も、おそらくは「恨んで欲しい」とか、復讐してほしいという思いなど、無いと思います。
壁に書かれた文字にあるように、ただ「忘れるな」という、これは血の出るような叫びです。
その叫び声を、私たちは決して忘れてはいけないのだと思います。
なぜなら、二度と、同じような苦しみを味わうことがあってはならないからです。

そしてそれは、恨みとか差別とか、そういうことではなくて、人道というものが、人に対してはとってもたいせつなことだけれど、この世には人の皮をかぶったケダモノが、実際に存在するのだということ、そして、そのようなものに対する警戒は、金輪際、怠ってはならないことを、私たちに教えてくれていると思うのです。

もともとニコライエフスクは、ロシアやソ連ではなく、支那女真族(満州族)の土地だったところです。
ここには、大正9(1920)年当時、日本人700名を含む1万7千人あまりが住んでいたのです。

内訳は次の通りです。
日本居留民 約   700名
白系ロシア人約1万5000名
中国人    約  1000名
朝鮮人    約   500名

日本人700名というのは、日本陸軍の2個歩兵中隊が約260名を含みます。
その他の日本人440名は軍属と婦女子です。

なぜ尼港(ニコラエフスク)に、日本陸軍が駐屯していたのでしょうか。
それには理由があります。

大正6(1917)年に、帝政ロシアでレーニンに指揮された「ロシア革命」が起こりました。
ロシア革命というと、ただちにソヴィエと連邦共和国が成立して、いきなりロシア全体が夢と希望に満ちた地上の楽園の共産主義国家になったかのようにいう人がいますが、まったく違います。

なるほどこの年にレーニンはロシア皇帝を引きずり降ろして政権を奪いましたが、ロシア革命が行われた当時は、世界中どこの国の政府も、レーニン率いるソ連政府を国家として承認していません。
むしろテロによる過激派勢力によるロシアの内乱として警戒していました。

そしてロシア革命がロシアにもたらしたものは、ロシア各地の無政府状態です
とりわけ多数の囚人が送られていたシベリアは、とんでもない状況になりました。
シベリア送りになっていた凶悪犯罪者らが突然牢から出され、ロシア共産党から武器を受け取って世間に放たれたのです。 これが共産パルチザンです。
彼らは、集団で徒党を組み、あちこちで悪逆非道の限りを尽しました。

これはもともと大陸の伝統です。
日本では古来、軍人がきわめて礼儀正しいので、多くの日本人が誤解するのですが、大陸では、軍人と暴徒とヤクザはまったく同じものです。
しかもシベリア送りになっていたのは、帝政ロシア時代の極悪人たちです。
ただでさえ極悪非道な連中が、そのしでかす凶悪行為を、共産主義革命のためだと正当化され、武器弾薬の補給まで得るようになったのです。

キチガイに刃物とはよく言ったものです。
彼らは集団で徒党を組み、武器を手にし、パルチザンとなってシベリア各地を荒し回ったのです。

ロシア革命当初は、シベリア方面には保守派のロシア極東総督のロザノフ中将や、コルチャック提督などがいました。
彼らはロシア帝国の正規軍を指揮し、パルチザン化した凶悪犯たちや、革命派勢力などと戦ったのです。
けれどすでに本国のロシア王朝は倒れています。
これが意味することは、彼らシベリアの正規軍には、中央からの補給がない、ということです。

そこで日英米の三国が、シベリアのロシア正規軍の支援のために、大正7(1918)年8月に、シベリアに共同出兵しました。
ところが翌年になると、シベリア・オムスクにあったロシアの総督府が、パルチザンの攻撃によって倒されてしまうのです。
ロシアの総督府あればこそのシベリア出兵です。
身の危険を感じた米英両国はシベリアから撤兵してしまう。

ところが日本は、ロシアと国境を接しています
北満州には、たくさんの日本人の一般人も残っています
そしてパルチザンが南下してくれば、それはそのまま日本の危機になります
現実にもしパルチザンが海をわたって樺太、北海道にやってくれば、その被害は想像を絶するものになります。

ですから米英が軍を撤収しても、日本はシベリアに兵を留めるしかなかったのです
そして日本はこのとき、やむなく第12師団(約1万5000名)を、シベリア各地に派遣しました

師団の派遣となれば、それは大事(おおごと)です。
けれど広大なシベリアに、1万5000名は焼け石に水です。
師団は諸所に分散し、その結果、ニコラエフスクには、2個中隊260名しか駐屯できなかったのです。

そこにパルチザンがやってきたのが、大正9(1920)年1月29日のことでした。
それまで雪深いこのニコライエフス(日本名「尼港」、以降尼港と書きます)は、共産パルチザンも鳴りをひそめ、比較的静かな状態だったのです。
ところがそんなニコライエフスクに、突然ロシアの共産主義者のトリビーチンを首領とする約4000人のパルチザンが押し寄せてきたのです。

尼港 1900年(こちらの写真はねずさんのところでご覧になってください^^;)

守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(約260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)の合計約350名たらずです。
つまり、守備隊の10倍以上もの暴徒が、街を取り囲んだのです。

パルチザンたちは、街を包囲すると、「自分たちに敵意はない、食料の補給に強力をしてほしいだけだ」と使いを立ててきました
それを真に受けたニコラエフスク市は、パルチザンたちを市内に入れました。

ところが市内に入るやいなや、パルチザンたちはロシア白衛軍の将兵を捕らえて、これを全員殺してしまったのです。
さらに彼らは、一般市民(ロシア人、ユダヤ人)を虐殺し、家内の家財、財宝を奪い、婦女子にいたるまで、その全員を虐殺してしまいます

パルチザンたちは、次々と白衛兵と白系市民を銃剣で突き殺し、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに人々を放り込みました。
たった一晩のできごとです。
たった一晩で、こうして尼港では、ロシア人とユダヤ人約2500人が虐殺されてしまったのです

翌朝、事実を知った石田副領事が、この暴虐行為に対して「厳重抗議」を行ないました。
けれど、共産パルチザンは聞く耳を持ちません。
当たり前です。
抗議を受け入れるくらいなら最初から虐殺などしていない。
そしてパルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきたのです

ここは大事なところです。
いまでも外国や外国人の非道に対して、「話し合って解決する」あるいは「遺憾の意を表する」などととぼけたことを言う政治家などがいます。
現実を見てもらいたいと思います。

つい前日に、白人たちが虐殺されているのです。
日本兵が武装解除したら、そのあと日本人が何をされるのか。
それこそ火を見るより明らかです。

現地の日本軍部隊は、日本に急を知らせる電文を打ちました。
援軍の要請です。
けれど日本からの援軍は、小樽から発進するのだけれど、真冬の寒い時期のことです。
海面が凍結していてすぐには動きようがありません。

満州方面にいる他の部隊も、移動は徒歩です。
いちばん近い部隊でさえ、到着するのに40日かかる。

ニコラエフスクから日本人、ならびに日本軍駐屯隊が脱出しようにも、周囲は凍土です。
しかも街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されていたのです。
つまりニコラエフスクの駐留部隊は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。

座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。
白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募りました。
そして3月12日、日本軍110名で武装パルチザンの本拠を急襲したのです。

けれど敵は、武装した4000人の大部隊です。
衆寡敵せず。
駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまいます。

義勇隊に参加しなかった軍人、軍属と女子供達600名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に退避しました。
けれど、領事館に集まることができたのは、わずか250名です。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかってしまっています。

後日の調査記録によると、共産パルチザンたちは、この日、日本人の子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺しています。
こうしてまたたく間に、義勇隊110名、逃遅れた日本人約240名が犠牲となりました

日本領事館では、襲ってくる共産パルチザンたちと、激しい戦闘が繰り広げられました。
戦闘はまる一昼夜続きました。

実際に傭兵として世界の戦場を点々とした経験を持つ方から聞いた話ですが、一般に、銃撃戦というのは、ほんの数分で決着がつくものです。
銃撃戦が10分も続いたら、「今日の戦闘はむちゃくちゃ長かったねえ」などと、後々まで話題になるくらいです。
それだけ銃撃戦というのは、両軍の戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を強いるものです。

ところが、尼港の日本領事館では、まる一昼夜、銃撃戦が続いたのです。
立てこもる日本人兵士たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。

一昼夜が経ち、朝日が射す頃、領事館内の生存者は、わずか28名になっていました。
弾薬も底をつきてしまいました。
残った一同は、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。

こうして一夜が明けたとき、尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しないで、かつ生き残っていた民間人121名だけになりました。
抵抗を続ける日本軍強しとみた共産パルチザンは、策を弄しました。
「山田旅団長の停戦命令」を偽造したのです。

河本中尉は、これは「怪しい」思いました。
けれどもし、停戦命令に従わなかったことが、後日、国際上の問題となったら取り返しがつきません。
軍は、あくまでも上官の命令によって動くものです。
河本中尉は、命令を受け入れました。

河本中尉以下の121名は、全員、武装解除のうえ投獄されました。
そして、食事もろくに与えてもらえないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。
零下30度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。

そして、陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれ殺されました。

春になって、ようやく旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。
そこで彼らは、地獄絵図を見ました。

そこは焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」
と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。

日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月24日に、支那人の妻妾となっていた14名の女性以外の生き残った日本人全員を殺害していたのです。

支那人の妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月24日までの100日余の尼港の模様が明らかになりました。

日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ、
死ぬまで何度も刺されていました。

そして金歯があるものは、生きたまま、あごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。

※この記事は2009年6月の記事のリニューアルです。

❀*゚:*❀*゚:*❀ *゚:*❀*゚:*❀ *゚:*❀

ねず先生、今日も重要な学びをありがとうございました❀
残酷で悲しい事実だけれど、決して忘れてはならない事実だと思います。





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